2018年8月17日金曜日

落語にハマっています

この数ヶ月……いえ、歌丸さんが亡くなってからだから一ヶ月半ほど、落語を聞きまくっています。
もう80以上、聞きました。
古今亭志ん朝さんの話を中心に聞いており、面白いものはほかの人でも聞いていますから、全部で100くらいは聞いたでしょうか。
頭の中、言語感覚が、けっこう江戸落語のリズムになってきている気すらします。

学生の頃、枝雀さんの落語をテレビで見て「すげー」と思ったり、フリーになってから生で聞いて「皆さんすげー」とも思いましたが、ハマりはしませんでした。
今回、志ん朝さんの『井戸の茶碗』を聞いて、場面転換やオチの“空気感”の素晴らしさに特に圧倒され、以来どんどん聞いています。

志ん朝さんの落語は、素晴らしいです。
ものすごく巧みでありながら極めて自然でおおらかで、人や状況がありありと目に浮かぶ気がします。古典落語には嫌な話になりがちなものもあるのですが、志ん朝さんが話すと、登場人物はみな愛嬌とかわいげがある、愛すべき人になります。素晴らしく爽快です。
そして、必ず笑えます。『愛宕山』『船徳』『寝床』など圧巻、大笑いです。

そうしたすごいのを聞くとほかの落語家のものも聞きたくなるわけですが、主だったところ数人のものを聞いても、どうも私的にはピンときません。
お父さんである古今亭志ん生さんの話は、もはやカタストロフでものすごく、しかしやはり愛嬌があり、すごく面白いのですが。枝雀さんも、完全な別物で大笑い、圧倒されます。
でも、(技術的・人間内容的に達していない人は論外として)どうしてもほかの人の話には、わざとらしさ、偉ぶり、笑わせよう・泣かせよう感……などなどを感じてしまい、なんだかなあ、と思ってしまいます。せいぜい「なるほどね」と感心するくらい。

もちろん、あれだけ評価が高い人たちなのですから、 私がまだわかっていないだけなのでしょう。
でも当面は、志ん朝、志ん生、枝雀の三人でOK、この人たちの話を聞くだけで手一杯ですし、十分です。

いまさらな話かもしれませんが、 やっと落語を好きになることができて、今とてもうれしいです。
ようやく書き出した小説にも落語のエッセンスが反映されるかもしれない、なんて思ってもいます。
いろいろ楽しみな昨今です。